平曲とは

 平曲とは、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり……」で始まる「平家物語」を琵琶の音とともに語る伝統芸能です。小泉八雲の描いた「耳なし芳一」は、琵琶法師の芳一が平家の怨霊に耳を削がれる怪談で有名です。琵琶法師は平家の盛衰を語る「平家物語」より以前、平安時代から盲人で出家者・僧侶で、琵琶を弾いてさまざまなお話しや念仏を歌うように語り聞かせる芸能の人々でした。鎌倉時代から江戸時代まで、この盲人の琵琶法師が「平家物語」を語り歩き、耳で聞く文芸、音楽的な芸能として人々に親しまれ、広く受け入れられてきました。この「平家物語」を語る伝統芸能を、伝承者たちは「平家」と呼び、近世以降、武士や文人の間では「平曲」と呼ぶようになりました。

平曲の歴史

 平曲の始まりは鎌倉初期までさかのぼります。藤原行長が延暦寺に遁世して平家一門の物語を綴り、盲目の僧、生仏(しょうぶつ)に天台声明*の音節に似せて語らせたのが始まりとする伝承があります。(『徒然草』 『平家勘文録』『当道要抄』)
 平曲が現在に近い形へと完成されたのは南北朝期、明石検校覚一の時代、その頃に隆盛を迎えました。時の朝廷から京に職屋敷を賜り、公家社会の保護もあって、当道*という座の制度が整えられ、平曲を表芸*とする盲人全体の組織となりました。
 江戸期に至ると平曲は将軍家の法要で語られるなど、武家社会の保護を受けて大いに栄えました。元禄時代には、将軍から江戸に惣録屋敷を賜り、平曲の名手が次々と下向し、江戸の武士や文人に愛好家が増え、平曲は全国的に広がります。
 しかし、やがて平曲伝承にも危機が訪れました。三弦(三味線)や鍼が盛んになると、演奏機会の少ない平曲を捨て、三弦や鍼のみに走る盲人も現れました。この時、前田流と波多野流、両流の奥義を極めて平曲を伝承し、後継者を育成して平曲の危機を救った人物が荻野検校知一で、「平家中興の祖」と呼ばれるようになりました。荻野検校は伝承の乱れを正すため、『平家正節』(へいけまぶし)を編纂しました。今日に伝わる平曲はすべて『平家正節』の流れを汲むものと言えます。

*声明(しょうみょう):仏典に節をつけた仏教音楽のひとつ。法会などの儀礼に用いられる。天台・真言両宗を中心に伝承され、後世の芸能に影響を与えた。
*当道:朝廷、幕府の公認の座で盲人が組織した職能団体。盲人の官位をつかさどり、琵琶・三弦・箏(そう)・鍼灸(しんきゅう)などの職業を専有し、これらを継承・発展させた。
*表芸(おもてげい):芸能者が演奏するなかでも、代表的で最も重要な芸能のこと。
*平家琵琶:鎌倉時代初期に成立。平家物語を語るための琵琶。4弦5柱、楽琵琶より小型である。

荻野検校 知一(おぎのけんぎょう ちいち)

享保17年(1732)、広島に生まれました。名を業知といい、6歳の時に失明、吉益東洞に医学を学び鍼医を志しました。しかし、勾当に昇進した頃には一方流の名乗りに倣い一を付け、知一と改めています。宝暦3年(1753)22歳の時、総検校の要請を受けて前田流平曲を習い、さらに波多野流を極めて明和2年(1765)34歳で検校に昇進し、京で名声を博します。明和8年(1771)40歳の時には、尾張9代藩主徳川宗睦(むねちか)公の要請に応えて名古屋に移り、整譜事業を開始。宗睦公の近侍や学者の協力を得て、安永5年(1776)に『平家正節』全39册を完成させました。その後、京には戻らず、一人娘の嫁ぎ先、尾﨑家に寄寓して晩年を過ごし、享和元年(1801)70歳で世を去りました。現在の尾﨑家の当主は荻野検校の娘婿から七代目にあたります。

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