平成28年度予定行事

  • 平成28年10月15日(土)
    午前10時~午後3時30分予定
    妙音会 -平曲会と茶会-
    名古屋市東山荘(詳細未定)
  • 平成28年11月20日(日)
    午後1時30分~4時予定
    特別企画「平曲と狂言の語り―奈須与市語―」
    名古屋市西文化小劇場(詳細未定)

平成29年度予定行事

  • 平成29年6月17日(土)
    第24回平曲鑑賞会
    名古屋市西文化小劇場(内容未定)

江戸時代の平曲

intoro_biwa琵琶を弾きながら「平家物語」を語る伝統芸能、平曲。その創成の歴史は、鎌倉期にまでさかのぼります。平曲が現在に近い形へと整えられたのは、室町期。公家社会の保護のもとで当道という座*の制度が整えられ、職屋敷に平曲を表芸とする盲人芸能家が統括されました。
江戸期に至ると平曲は将軍家の式楽*に定められ、武家社会の保護を受けて大いに栄えました。元禄時代には、江戸に惣録屋敷が設けられ、平曲の名手が次々と招かれ、平曲は全国的に広がります。しかし、やがて平曲伝承にも危機が訪れました。
三弦や箏曲が盛んになると、平曲を捨てて、三弦や箏曲のみに走る盲人芸能家が増えたのです。この時、前田流と波多野流、両流の奥義を極めて平曲を伝承し、後継者を育成して平曲の危機を救った人物が、荻野検校知一で、「平曲中興の祖」と呼ばれるようになりました。

平家琵琶:鎌倉時代初期に成立。平家物語を語るための琵琶。4弦5柱 *当道:室町時代以後、幕府の公認の座で盲人が組織した職能団体。盲人の官位をつかさどり、琵琶・三弦・箏(そう)・鍼灸(しんきゅう)などの職業を専有し、これらを保護した。 *式楽:公儀の儀式に用いる音楽や舞踊。主として江戸幕府における能をさす幸若平曲がある。

荻野検校 知一(おぎのけんぎょう ちいち)

intoro_ogino享保17年(1732)、広島に生まれた知一は6歳の時に失明し、吉益東洞に医学を学び鍼医を志しました。しかし宝暦3年(1753)22歳の時、総検校の要請を受けて前田流平曲を習い、さらに波多野流を極めて明和2年(1765)34歳で検校に昇進し、京で名声を博します。
明和8年(1771)40歳の時には、尾張9代藩主徳川宗睦公の要請に応えて名古屋に移り、整譜事業を開始。宗睦公の近侍や学者の協力を得て、安永5年(1776)に『平家正節』全39册を完成させました。その後、京には戻らず、一人娘の嫁ぎ先に寄寓して晩年を過ごし、享和元年(1801)70歳で世を去りました。

『平家正節』編纂

intoro_moji丹羽敬忠の序文によれば、『平家正節』編纂の趣旨は、長い伝承の歴史をもつ平曲の詞章の乱れや曲節の誤りを正すことにありました。
詞章や曲節の吟味はもちろん、発音やアクセントに関する注記方法や墨譜*の記号化にも独自の工夫がなされています。そして最も特徴的な点は、「平家物語」の章段を解体して巻き通しに配列したことにあります。さらに、伝授物である読物上下・五句物・炎上・揃物・灌頂巻・小秘事などを別立てにしている点などから見ると、稽古順序を意識して配列したものと考えられます。これには「平家物語」の全巻を語る「一部平家」の省略法的な演奏技法が意図されているのかもしれません。
『平家正節』編纂の事業は、荻野検校が明和8年に来名してから安永5年に完成するまでの5年間を要しました。この事業の推進には、尾張9代藩主宗睦公の支援が大きかったようです。編纂事業に係わったのは、宗睦公の近侍や儒学者を中心にした多くの門弟達でした。

*墨譜(ぼくふ):音の高低や長短を示す記号のこと。節博士ともいう。

荻野検校篇「平家正節」(尾﨑本)

intoro_book荻野検校の寄寓先である尾﨑家に残された『平家正節』は全39冊で、大秘事を欠きます。その内の「間の物」と「小秘事」を除く37冊の表紙裏には「荻野知 一」の朱印が押されています。荻野検校が手元において使用したものと思われますから、『平家正節』の祖本と呼ぶべきものです。
平曲を習う門弟は、この『平家正節』を一句ずつ書き写して練習したことでしょう。捲りの手垢や墨の汚れが随所に残っていて、多くの門弟によって書写が繰り返されたことを伺わせます。
なお、尾﨑家には『平家正節』全39冊の他に、その原稿本と思われるものや写本など数冊が保存されています。また、それとは別に「柱経」「平家勘文録・当道要抄」なども残されています。

「平家正節」の伝承

『平家正節』の完成は評判になり、京の留守を守った前田流の高弟の多くは、名古屋と京を往復して『平家正節』の習得に励みましたので、江戸後期の前田流平曲は『平家正節』へと変わっていきました。
今日まで残っている平曲は、名古屋の盲人伝承と津軽藩士が伝えた伝承に限られますが、この二つの平曲はいずれも『平家正節』を語り、その芸脈は共に荻野検校に遡ることができます。

津軽系平曲

天保年間、江戸の惣禄麻岡検校は『平家正節』を取り入れるため上京し、荻野検校の弟子山本・中村両検校の教えを受けて、これを江戸に広めました。津軽藩の用人楠美太素は藩主の供をして麻岡検校から『平家正節』を学び、奥義を究めたといいます。この『平家正節』は、父子相伝によって今日に伝えられています。「平家音楽史」の著書:館山漸之進やその末子で国の選択無形文化財に指定された館山甲午は楠美太素の子孫です。

当道系平曲

明治4年に当道が廃絶したことで、盲人伝承による平曲は急速に衰退してしまいました。しかし、名古屋では荻野検校直系の門弟達が『平家正節』を受け継いだため、盲人伝承が僅かに残りました。その伝承に大きな役割を果たしたのは、箏曲「千鳥の曲」の作曲者として有名な吉澤検校審一です。
吉澤検校は、荻野検校の直弟子である中村検校に平曲を学び、箏曲を光崎検校に学びました。そして、古典復古主義に傾倒し、 箏曲の習得には平曲を併習することが必要であると主張しました。その吉澤検校の弟子の小松検校は当道廃絶後、盲人音楽家の養成を図って名古屋に国風音楽講習所を立ち上げ、勾当・検校などの官制を設けて平曲の併習を義務づけて伝承を守りました。その伝統は今日の国風音楽会へと繋がりますが、今日ではその伝承者は僅かに今井検校一人という状況です。